<二日目・江田島へ>
アメリカのアナポリス、イギリスのダートマスと共に、世界の三大兵学校として名を馳せた大日本帝國の海軍兵学校。
学生のまま終戦を迎えた父。 心中を口にしたことなく父は他界した。
どうやって故郷の熊本まで帰ったのか。 今でこそ橋がかかっている島からどうやって出たのか。 父の口から語られることはなかった。
今回、知ったのは故郷が同じ方面の学生ごとに船で対岸へ学校が送り届けたとのこと。 その後は、どうやって帰ったのかはそれぞれ。 江田島では学生とはいえ給金が出ていた。 今の防衛大と同じ。
学校が預かっていたが、それを出したので汽車賃などはそれで賄ったのでは、と。 しかし遠くに帰る学生はお金が足りたのだろうか。 どんな格好で帰ったのだろうか。
原爆でめちゃくちゃになった広島市内の駅から汽車にのって九州方面へ。 爆心地から2キロぐらいまでが建物が壊れたという。 駅は、爆心地から東へ2キロ弱。 ギリギリだったのか。わからない。
少し調べると路面電車は原爆投下後、3日目で走らせたという。 賃金はただ。 これに乗ったのか乗らないのか。 わからない。
その後、父はほうほうのていで故郷に戻った。 どこからかとてつもなく長く歩いたらしいが、どこから歩いたのは、もう不明。
父は多くは語らず、またわたしも全く興味なかったので聞くこともなかった。
乾パンを3個と毛布を持たされた、ぐらいを父が笑いながら言ってたっけ…
のち、父は地元の大学の工学部に入り日本の復興に尽力した。(道路、ビルを建てただけだけどね。それも食べるため)
江田島の案内人が、
「敗戦の色濃くなった頃、兵学校ではあえて多くの学生をとった。
それは敗戦後の日本を立て直すために優秀な人材を育てておかねばならないから」
と。
旧海軍兵学校。 今は
海上自衛隊、第一術科学校、幹部候補生学校となっている。
見学は無料。 時間帯は決められ入り口の門で受付をし、胸に見学者のバッジをつける。 自由行動不可。 案内人の指示で動き、入ってはいけない場所、さわってはいけないものなどの説明を事前に受ける。
大丈夫、日本人だもの。 でも、スパイもいるかもね。
あくまで、今、学生さんがいる学校見学であることを忘れない。
見学者の中には20歳をいくつか越したぐらいの若いお嬢さん3人組。 「なぜ、ここに来たの?」と聞いてもケラケラケラ〜〜と笑ってばかり。 よくわからない。 それでもここに来るなんてあっぱれ。
車椅子の例の国会議員と同じ病気の人と介添人さん。 生命を維持するような装置と、パソコンのようなものを車椅子につないであった。
そのほか、おじさん、おばさんたち。
最後の時間帯だったので、そんなに多くもない人数。
*大講堂。
大正6年時に40万円を投じ、瀬戸内海の御影石で作られた、とのこと。 税金、寄付などで賄ったとか。
右の車寄せは、天皇や皇族など高い地位の人が使う。 もちろん見学者は近寄ることもできない。
立ち入り禁止の一面白砂でまるで枯れ山水。 誰の靴跡もついていない。 日本人ばかりだから。
*大講堂の車寄の反対側に来ると一般人の入り口がある。↓
今も卒業式などではここを使うとか。 ここからは見学者も入ることができる。
入り口はバリアフリーの板が置いてあるけど、その車椅子の人は中へは入らなかった。 車椅子が貴重な建物の床などに傷つけるのが心配なのかは不明。 ほかの見学者が「みんなで上げましょうか」と声かけたけど「外から見学します」とのこと。 「車椅子に配慮しろーーーー」など言わなかった。
*ドーム型の天井から下がるシャンデリアの意匠は舵輪をイメージ。 2000人入る講堂だそうだけど、そんなに広くは感じなかった。 二階席を入れて、かな。
*玉座。
白く引っ込んだ場所は天皇の椅子を置くところ。 菊の半円。
木製の上の部分はフクロウをイメージしていると。 フクロウは福。
日章旗と旭日旗。 どこぞの民族が卒倒しそう。
*有名な「海軍兵学校」を象徴する建物。通称「赤レンガ」。
海軍兵学校生徒館
左右対称で全長140m。 艦の長さを模したとか。この長さを肌感覚で植え付けるため、だとか。 「大和」は全長263m。
この建物より遥かに大きい。
見学者は入れません。
*左手横から。
「坂の上の雲」もこの廊下でロケ。
いろいろ工事中だったけど、ちょうど学生さんたちが歩いていた。 制服のかっこよさ。
*工事中で見ることが叶わなかったこの赤レンガの裏手。
さんから画像を拝借。↓
この回廊、見たかったわ。 春は美しかろう。
父もここを闊歩したのだろうか。
海兵の五省
一、至誠に悖(もと)るなかりしか。 一、言行に恥ずるなかりしか。 一、気力に欠くるなかりしか。 一、努力に憾(うら)みなかりしか。 一、不精に亘(わた)るなかりしか。
どこぞの高貴な人に聞かせてやりたいわ。
*学生さん。 見学者はしょっちゅう。慣れてるみたい。
走ってる隊もあって、女の子が数人。 メニューは男と同じ。 女の子、けっこう小柄。
案内人さんによれば女の子のほうが優秀だとか。 そりゃ、ここに入るには相当の覚悟がいったでしょうからね。
*地面を艦上に見立てカッターを上げたり下げたりの訓練。
動きが機敏。
チームワークが大事みたい。 「せーの」とか声かけ(「せーの」はイメージ)
父が「カッター訓練はきつかった」と。 この時も洋上でカッター漕ぎの訓練をしていた班もいた。
*広いグランド。
*はためく日章旗。
*教育参考館。
幕末から大東亜戦争までの海軍関係者の書や資料、遺品、遺書などが展示されているとか。
この日、月二回の休館日に当たってしまった。 行く時には調べていくことを推奨。
ここは戦後、GHQに占領され映画館などに使われたとか。 戦争は負けるもんじゃない。
案内人がそのことを話した時には、見学者から「悔しいなあ」という言葉が漏れた。 本当にそうだ。
敗戦間近、ここに置いてあったいろいろな資料や機密などは厳島神社に預けたりしたと。
残りは焼いたそう。 連合軍に見られるよりは焼却を選んだ海軍。
庭には真珠湾を攻撃した特殊潜航艇が置いてあったけど、心が痛くて直視できなかった。
こんなのに乗ってハワイまで行ったなんて。
もっともっとエピが残っている。 国民の多くがここを訪れてほしい。 日本人はかつて雄々しく戦った、と。
見学が終わって売店へ。
購買部のような感じ。
学生さんが紛失した紀章などを買いに来てた。
その売店でのできごと。
長く、この売店にいる男性だと思う。 かなりの物知り。 その時に触れる人々の話をきいて膨大な知識、情報、逸話が頭に入っている。
わたしの父が何期だと知ると名簿を見せてくれた。 普通は「参考館」で見ることができるとか。 その日は参考館がお休みなので気遣ってくれた。
「ここに」と、指差してくれるところをメガネをかけてみると父の名前が。
そして「特別」といって裏の方から出して見せてくれたのは当時の制服。 個人で手に入れたもので、クリーニングのビニールから出してくれた。
冬用で短い上着。 前はチャック。 襟、前立てにはモールがついている。
いわゆる「チャックラン」。(学ランをもじって) どこそこの高校でもチャックランも多い。
けっこう小さい。 ショート丈の上着はドラマでもよく見た。
「当時の男性は小柄だった」とのこと。
そういえばそうね。うちの父も大きくない。
夏服。
桜と錨。
今これは錨が下になってるけど、当時は(今は知らないけど) 全部、きちんとしてないと怒られたんですってね。
*10代の父↓
もっくん、夏服。
おかしかね〜 うちの父もぎゃん、なるはずだったばってんが…
がきデカになってしもとるばい。
※艦上は狭いので敬礼は小さい。
父の頃までサーベルはあったらしいけど、物資が足りなくなってきてサーベルもない海軍兵学校の学生さんもいたとか。
かなしかね。
敗戦と同時に海軍兵学校は閉鎖された。
明治2年創立。 77年間、11182名の卒業生のうち33%が英霊となった。
そのうちの大東亜戦争の戦死者率は驚くことに95%。
生き残った父たちは、敗戦後の日本の復興に尽くせと。
それは、海兵の人たちばかりではなく、当時の人たちみんなが復興に邁進した。
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惟うに諸子の先途には,幾多の苦難と障碍とが充満しあるべし。諸子克く考え克く図り,将来の方針を誤ることなく,一旦決心せば目的の完遂に勇征適進せよ。忍苦に堪えず中道にして挫折するが如きは男子の最も恥辱とする処なり。大凡ものは成る時に成るにあらずして,其因たるや遠く且微なり。諸子の苦難に対する敢闘はやがて帝国興隆の光明とならん。終戦に際し下し賜える詔勅の御主旨を体し,海軍大臣の訓示を守り,海軍兵学校生徒たりし誇を忘れず,忠良なる臣民として,有終の美を済さんことを希望して止まず。
茲に相別るるに際し、言わんと欲すること多きも,又言うを得ず。唯々諸子の健康と奮闘とを祈る。
昭和20年9月23日
海軍兵学校長栗田健男 ---------------------------
君たちの前途は多難である。しかし、しっかりと考え将来の道を邁進せよ。 海軍兵学校の誇りを忘れず、祖国を復興しろ、と。
そう訓示を受けた父がなにを思ったのかは不明。 のち、せっせとビルや道路を作ったのはそれなのかな、なんてね。
いろいろ思って江田島をあとにした。
広島駅付近にアパホテルをとっていたので向かうけど、まあ道が混んでる混んでる。
どこかファミレスがないかな?
なかなか左側にない。
あったのは「やよい軒」。 やよい軒デビュー。
食券?! 買うのにもたもた。
アパホテルが複数あって「どっちだったっけ」、とアホ夫婦。
フロントに「**ですが、わたしこことってます?」とアホな質問。 検索してくれて「ここです」って。
フロント受付に大勢のスタッフ。 人間もうじゃうじゃ。 おばさんが「ここ、わたし、とってますか〜〜」って。 サラリーマンばかりの中で浮いているわたし。夫は車で待機。
どたばた。 さらに、「駐車場はーーーーー?」とどたばた。
で、自動入力チェックイン。 はい? これももたもた。 パネルでいろいろ入れる。
五十音並び。 パソコンのキーボードではスラスラいくけど、これは手が動かない。
後から、タブレットを持ったスタッフのにいちゃんが、内心は「このばばあ」と思ってるか知らないけどニコニコして「問題は解決しましたか」とまるで、パソコンのようなセリフを吐く。 マニュアルなんだろうな。
気に入ったのはフロントのカウンターに小さな日章旗が立ててあったこと。
チェックインしたら機械からカードキーが2枚出てきたので「別々の部屋かいーーーー?」と聞いたら「人数分です」だって。
一人で外に出ても平気なようになのか知らんけど。 へえ〜〜〜
チェックアウトもカードキー(人数分)を返却ボックスに入れるだけ。 システムは簡単に。 でも、サービスは厚めに、という感じ。
アパホテルは例のあれ、ほらあれ事件。
会長が真実の近現代史を書いたら発狂した特亜が「そんな本をホテルに置くなーーー」とデモ。 「泊まってやらないぞ」と。
返って繁盛。
あーーー「あるある」「にだにだ」族がいなくて気持ちよかったわ。 日本人で満員。
値段は高いかと思っていたけど、ツインで13000円ぐらいだったな?
社長が折ったという千羽鶴も枕元に。 持って帰ってもよし、そのままにしてもよし。
アパホテルの会長の例の本。
そんなこんなでこの日は終わった。
つづく
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